読書感想『ノルウェイの森』

1.書籍情報

ジャンル:ドラマ 恋愛
鑑賞履歴:2021/6/18(文庫)
公式サイト:
wikipedia:wiki
作者:村上春樹
制作年:1987年
制作国:日本
ページ数:268(上巻)、260(下巻)
発行元:講談社
受賞歴:

2.感想

※※※ 以下、ネタバレありです! ※※※

色々な所で書いていますが、僕が21歳の頃、毎日のように空いた時間があればこの本を手に取り、適当に開いて読みだすという事を繰り返していて、それは1年か2年か、ずっと続けていました。
それこそ、ほとんどの言葉をそらで言える程に読んでいました。
でも、その当時、なんで僕はこの本にそこまで惹かれていたのか?
正直な所、あまり思い出せない所でもあるんですが、読めば涙腺は緩むし、自分自身の不甲斐なさ、というよりも自分自身の不完全さみたいな部分に響いていたんだと思います。
自分自身に対しての悲しいこと、辛いこと、寂しいこと、情けないこと、そういった部分、そういった出来損ないの自分に対してこの本が何かしらの肯定感で足りなさを埋めてくれる感覚だったことだけは感触として覚えています。
具体的に何?と言われれば、それは明確ではないので、感触として、としか言えないのですが。

この本で書かれているのは、18歳から21歳のワタナベ君と直子と緑の3人の話です。
この年代、18歳から21歳というのは、多くの人に取って子供から大人になる通過点のような微妙な期間かと思います。
肉体的にも、精神的にも、社会的にも本当に微妙。
自由になることは増える一方、やったことの責任が本人にそのまま戻ってくる。
そして、完全な大人になる直前の期間で、大人になる為の準備として急速に強さを身に付けなければいけない期間。
おまけに、それは知識として身に付けるよりも、叩かれて、苦しんで身に付けることが多いので痛々しい。
おそらく多くの方にとって、この期間を振り返れば、痛ましく、未熟だったと恥ずかしく感じる期間ではないのかな?と思います。
人は常に変化を求められますが、ここまではっきりと精神的な変化を求められる期間は、人生でそう多くはないように思います。

この3人に限らず、誰もが自分の中に核となる内側の世界を持っていて、その上で人と人が交わる実際に生きていく現実世界にはある程度の順応をさせて、そうして生きていくのが一般的かと思います。
内側の世界という表現は曖昧で、正確にはただの人格なんですが。
ただ、この本に関しては、というよりも村上春樹先生の本に関しては、並列的な世界観が印象的で、僕にとっては人格よりも世界という言葉の方がしっくりきます。
また、人格というにはその存在がストーリー的な空気と音と色を持っているので、そういう意味でも世界という言葉で通して話を進めます。

彼ら3人にとって、現実世界というのは汚らしくて、見苦しくて、無神経で、打算的で、ずる賢い物に見えていたんだと思います。
そして、この辺りの感覚は自分にも確実にありました。
よく言えば、擦れていない、純潔で、まっすぐとした価値観なんでしょうし、悪く言えば、協調性がなく、独りよがりで、面白みのない価値観なんだと思います。
なので、ワタナベ君を始め、彼らは現実世界の多くの人と相容れないです。
学生運動に励む同年代の者達や、新宿のレコード店に屯する若者達や、そして酒や女や賭け事に酔う者達と。
それでも現実世界で自分を保ち、接点を持って生きていかなくてはならない。
その事に絶望し、何より現実世界に紛れる事で自分自身を失ってしまうことを恐怖する。
この本で描かれているのは、3人それぞれの世界が混じり、拒み、そして現実世界とぶつかり、失う物を受け入れる事の痛みを示しているようにも思います。

3人の他にキズキという少年が出てきます。
キズキは直子にとっては幼馴染で、彼女の世界はキズキとの記憶で満たされていました。
その世界は美しくこの先も満たされていくはずだったのに、キズキの自殺によりぷっつりと途切れてしまい、そしてその世界が停止してしまった。
言葉は悪いのですが、直子の世界は幼いのだと思います。
キズキと二人で子供のままで楽しいことしか入っていない、余りにも現実世界から浮世離れした穢れのない世界。
彼女がその世界を保持して生きていく為には、キズキという存在は不可欠であったし、また同じ世界を持つキズキと直子の二人が現実世界と交わるにはワタナベ君のような、現実世界と交わりは持てるが少し違う世界を持った人間が必要だったんだと思います。

ワタナベ君は人との交わりよりも自身の感覚に従って良識を判断していく青年のように思いました。
良識が強すぎるが故に自分の感覚と合わせない物と上手く合わせることが出来ず、場に染まりきれない疎外感を感じてしまう。
そんな孤独感のある世界を持つワタナベ君にとって、キズキは16,7歳の頃に唯一心を通わせられる存在でした。
けれどキズキが自殺したことにより、一層、一人の世界を強め、現実世界との隔たりを感じてしまう。

この話の中では、キズキが何故自殺をしたのか?という理由は語られないです。
ただ、キズキ自身が自分の世界を現実世界に合わし付けることに絶望して、自らそれを断ってしまったと感じさせる部分は多かったです。
「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している。」
これはキズキの死を通してワタナベ君が感じた言葉です。
自ら死を選ぶという行為に対して、自身の内側の世界から、呼ばれる。という衝動的な感覚も含んでいる言葉のように思いました。

緑は3人の中では一番、現実の世界に適応できているように感じますが、彼女にとっても生まれ育った環境から自分自身が満たされていないという気持ちを持っています。
満たされないが故に現実の世界では言動が浮いてしまい自由に動けない。
彼女にとってはワタナベ君が、自分の満たされない欲望を埋めてくれる存在でした。
またワタナベ君にとっても、緑との世界はストレートで嘘がなく、人としての繋がりを得られる世界だったように思います。

3人が1度に交わることはありませんが、ワタナベ君を通して直子と緑は描かれます。
直子との時間は世界が音を無くしたように、静けさの中で二人の時間は進んでいるように感じました。
不思議なことに、現実世界で直子の手紙を読んでいる時ですら音が消える感覚を感じてしまうのは、受け手である僕にも直子の止まった世界が伝わっていたからだと思います。

緑とワタナベ君との時間は直子とは正反対に音に溢れ、現実と上手く繋がれている時間のように感じました。
緑の奔放な発言と、満たされない欲求に対してワタナベ君がそれを満たし、緑にとっては生きる希望を与え、ワタナベ君にとっては緑の存在が現実との懸け橋となっているように思いました。

二人を同時に愛してしまうワタナベ君は悩み苦しみますが、結果、直子はその事実を知らないまま、自分の世界のままで命を絶ってしまいます。
それは唐突に訪れる死でしたが、直子は自分の世界を現実世界に順応させることを拒んでしまった。
自分を愛するワタナベ君を介して現実世界に踏み出す事さえ受け入れられなかった。
その事を、ワタナベ君はキズキが直子を連れて行った。と、理解します。
と同時に、これはずっと判っていたのでしょうが、直子は自分を愛するという事すら出来なかった。と知ります。

きついな。この話は。本当に。

改めて45歳になった今、この本を読み返して感じたことですが、21歳の僕にとってワタナベ君は自分の世界を持ち、現実の世界と距離を置いて直子と二人だけの世界で生き続けようとしている強い人間に思えていました。
けれど、いかに彼が傷つきやすく、弱く、現実に順応できない自分に絶望していたか?その思いを強く感じて、当時よりも切ない思いで読み進めました。
多分、この認識の差は僕自身が大人になるという段階を過ぎて、その段階で藻掻く彼らの姿を過去の物として見れるようになったから。
もしくは、この本の書き手はあくまで37歳のワタナベ君なので、自分自身が書き手のワタナベ君の方に添って読めるようになったからかもしれません。

ただ、いずれにせよ、21歳の僕を振り返った時、当時の僕はワタナベ君ほど精神的に大人ではなかったでしたし、彼が直子を望むほどに好きと思っていた人もいませんでした。
それでも、彼と同じく上手く世界と交われていない自分に絶望していました。
大学を辞めて、社会にも出ず、ただ日々の楽しみを求めて暮らす毎日。
いつも誰かといて楽しかった一方で、普通の人生からずれて行っている自分に不安がありましたし、よく喧嘩もしました。
喧嘩して一人になると、物凄く自分が惨めになって、また同じような堕落した人を探したり。
けれど、同じような生活をしている彼らと一緒にいることはただの馴れ合いでした。
結局、今でも繋がっているその当時の友人はいないですし、一人ずつそこから抜け出したり、更に堕落して取り返しのつかないことになったり。
そんな日々が無意味で何の価値もないことは良く判っていましたが、その先の段階に行くことが出来ず、ずるずると過ごしてしまったというのが当時の僕です。

きっと僕は、この本を読んで、情けない自分に同情していたんだと思います。
上手く生きていこうとして挫折した彼らに同情するのは失礼な話ですが、同じ時期に悩みと苦しみを持った彼らの言葉が、僕の情けない心情を癒していたのは確かだと思います。
そして彼らが苦しみ抜いて吐き出していく言葉に救われていたんだと思います。

けれども、彼らと同じくその世界に篭り、次の段階に進まずに留まり続ける事は出来ないという事は僕にも判っていました。
だからこそ、永沢さんの言う「自分に同情するな。」と言う言葉がざくりと刺さるのかもしれないです。
この言葉は、現実世界と交わってもそこの世界に染まって腐るな。という意味にもとれますし、現実世界に交わりつつも自分の内部の世界を保ち続ける事を絶対に諦めてはいけない。と言っているように感じます。
現実世界を拒むこの話の中で最後に残る言葉が超現実的な言葉というのもまた、この本の魅力ですが、21歳の僕は絶対に自分に同情なんてしないという気持ちを胸に、強くならなければと前に進んだのかもしれないです。

3.評価

個人的な好き度合い:★★ (3/3)
人生でこれ以上に好きな本に出合えるか判らないくらいに好きです。

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4.お勧めしたい人

こんな方にはお勧めの小説かも知れません。

・性を扱っている小説を読みたい方。
・表現や比喩が独特な小説が好きな方。
・青春の息苦しさが感じられる小説が好きな方。
・音楽が扱われる小説が好きな方。
・精神的な病を扱った小説を読みたい方。

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